086 「そこだけ」
随分前にある知り合いの男性の車に同乗させてもらった時の話です。その男性とはそれほど親密なつき合いをしていたわけではないのですが、私より10歳年上ということもあり、話題が豊富でいろんな面白い話を聞けてとても楽しいドライブでした。
ところがどうしても納得がいかない数分間があるのです。その前後は全く何の問題もない楽しい会話が普通に続くのですが、数分間だけ何の脈絡もない意味のわからない暗い話になるのです。私の聞き違いだと思いましたがその内容自体はチャンとした文章になっていましたから、てっきり男性が冗談を言ったのだと思いました。
冗談にしてはあまり笑えない内容でしたし、なぜわざわざそんな不自然なタイミングで冗談を言ったのかがとても気になりましたので男性にそのことを聞いたのですが、男性は何のことかわからないと言うのです。最初は冗談の続きなのだと思っていたのですが、男性の話しぶりからすると、どうもそうではないようなのです。そのときの会話を再現するとこんな感じです。
男「…というわけでその魚は結局逃がしちゃったわけですよ。逃がした魚は大きいとはよく言ったもので……手遅れらしいですよ…定期的に病院で診てもらっていたのに、まさかそっちだとは誰も思いませんよ。気がついたときには全身に転移していたというわけで……でもね、あんな鯛はめったにお目にかかれるものじゃないですよ。3年前に70センチの鯛を…」
私「チョッと待ってくださいよ、手遅れってどういう意味ですか?」
男「…はい?」
私「いや、今、全身に転移して手遅れって…」
男「…何の話です?だから逃がした鯛が思いのほかビックサイズだったと言う話ですよ」
私「……はぁ…」
こんな感じです。気になって仕方ありませんでしたが、あまりしつこく聞くのも悪いと思い、その時は無理やり私の聞き違いだということにしたのです。その男性とはそれから2~3度お会いしましたが、そう言えばここ5~6年会っていません。元気で居られることとは思いますが…
コオロギのアトリエ