289 「白いもの」
50年も生きていると日常の生活の中で初めて目にする映像などというのは滅多にありません。ところが昨晩、久しぶりに新鮮な映像を見せていただきましたので報告いたします。
11時を少し回った頃に『おやすみ』という嫁の挨拶にパソコンに向かったまま適当に反応してからそれほど時間が経たないうちに部屋に嫁が戻ってきました。視野の隅でチラチラする嫁は何故かうつむいたまま肩を震わせているのです。
何だろうと嫁の方に視線を向けた途端「クックックック…」と妙な笑いと共に顔を伏せたままこちらに近づいて来るではありませんか。その状況が日常的ではなかったのでかなり怖かったのですが、そこは男として取り乱すわけには行きませんから「ど、どうかしたのか?」と最高の演技力で平静を装います。
これ以上近づけないと思われるくらいに接近し、満面の笑みを浮かべながらゆっくりと顔を上げて私を見る嫁の左の鼻の穴の周りには何やら白い物がベットリ付着していました。鼻血ならそれなりに諦めはつきますが鼻血とは別の何かが鼻から出ているのです。
思わず「大丈夫か!」と叫んでしまいましたが、その時点で私の平常心は崩壊していますから声は裏返り、バランスを失った私の体は椅子から転げ落ちる寸前でした。嫁は更に鼻の穴から白いドロっとした泡状の物を出しながらそれを私に見せつけるようにして言います。
「はっ、歯を磨いていたら手が滑って歯ブラシの先が鼻の穴に入っちゃったのよ、ズボッて…」
自分はどんなに歯磨き中に手が滑っても上唇の内側で歯ブラシは止まるのですが、一体どれほどの勢いで歯磨きをすればそのようなことになるのか不思議でなりませんでした。
コオロギのアトリエ