071 「トウモロコシ」
その山奥のアトリエで展覧会の準備に追われて夜遅くまで描いていたときの話です。その日は1月のとても寒い日で8畳の部屋の襖は締め切っていて、勿論廊下のサッシも締めていました。そのサッシを誰かがノックしていることに気づいたのは休憩に入った時ですから、もしかすると随分前からノックされていたのかも知れません。
慌てて廊下のサッシのカーテンを開けると、外におばあさんが立っていました。サッシを開けるとおばあさんはトウモロコシを2本乗せたお皿を私に差し出して「夜遅くまでごくろうさま、珍しくもないけど、良かったら食べて」と言います。
すでに12時を回っていましたからとても申し訳なく思いながら御礼を言って後姿を見送るのですが、懐中電灯も持たずに真っ暗な闇の中を帰っていかれたおばあさんは50メートル離れたお隣のおばあさんではありませんでした。
谷の向こう側の家おばあさんかと思いましたが谷の向こう側の家にも明かりは点いていなかったのです。と言うか、おばあさんに見覚えがないのです。そのアトリエを紹介されたときご近所に挨拶回りしたときには見かけなかったおばあさんなのです。
勿論トウモロコシの御礼をするために次の日、お隣と谷の向こう側のお宅を訪ねるのですがどの家にも心当たりがないというのです。その時に、真冬にトウモロコシは不自然ではないのかと言われ初めて気がつくのですが、それまで季節外れのトウモロコシのことをまったく気にしていなかったことが逆に不思議でなりませんでした。
そのときのトウモロコシの甘さは今でも忘れません。
そう言えばあのときのおばあさん、かすりの着物を着ていたなぁ…
コオロギのアトリエ